間抜けの由来
2006-12-27


広告の電通に、田丸秀治という人物がいた。鹿児島の産で、豪快かつ愉快な大酒。大会社の幹部ながら、偉ぶらない気さくな人柄が広く敬愛され、1977年、7代目の社長になった。
 ただニコニコしていただけではない。業界の倫理向上へ若い者をけしかけ、新聞広告審査協会や日本広告審査機構(JARO)の設立などを、陰に日向に推進した。
 もともと、旧制中学の歴史の先生からこの世界に転じた経歴からか、該博な知識と話術が人を引きつけもした。朝日新聞社で、戦後初めて編集から広告部門に移った珍しいキャリアの私を、「ホンちゃん、ホンちゃん」と、たいへん可愛がってくださり、夜の酒席にも繁く誘われた。
 ある時、「ホンちゃん、マヌケってなぜ言うか知ってるか?」と訊く。「さぁて、つまり、ものごとのマが抜けて、リズムが整わないことでしょうか」と、答えると、目を細めて笑いながら、「そんな答えじゃ、部下にはわかってもらえんぞ」と、こんな体験談を披露された。
 電通の4代目社長、「鬼十則」で有名な吉田秀雄氏の部長の下で働いていた時分、田丸青年の担当する取引先の近くで火事があった。夕方、社へ帰った田丸青年に、吉田部長が寄って来て「おい田丸、得意先の○○さんの近くで火事があったろう。見舞いに行ったか」と訊ねる。「いや、それが日中ひどく忙しくて、近火ということだし、まだ伺ってません」。
 とたんに、「鬼の吉田」のカミナリが落ちた。「バカヤロウッ!。そういうのをマヌケというんだ。すぐ走れッ!」。
 火事見舞いから戻った田丸青年を、吉田部長は待っていた。そして、「な、田丸よ。何をおいてもやらなければならぬことには《タイミング》がある。それが《間》というもんだ」と諭したという。
 都心の官舎売却などを唱え、政府税調会長を仰せつかったが、ちゃっかり愛人と贅沢官舎に住んでいたことが露見した本間正明阪大教授の、辞任まで10日余の《時》の空費は、政権をも揺さぶる「間抜け」だった。大学教授の品格のなさが目立つ。だいいち、挙措動作に銅臭が纏わる。阪大への辞表は、越年だろうか。(;)

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