歴史の伝承(上)
2006-06-12


5月27日、滅多に手に入らぬ「乗艦券」を旧友から恵まれ、海上自衛隊の護衛艦「はたかぜ」に体験試乗する機会を得た。横須賀を出港して東京湾を1時間半ほど周回し横須賀に戻る間、5インチ単装速射砲、対潜水艦ロケット発射式魚雷「ASROC=Anti Submarine Rocket Torpedo Launcher」、「ターター型対空ミサイル発射装置=Tartar-type Surface-to-Air Missile Systems (SAM) 」の操作実演などを、興味深く見学できた。
 あいにくの小雨で視界も悪かったが、子供連れの家族も多く、艦側も小ぶりに仕立てた士官服や水兵服を子らの記念撮影用に用意するなど、"愛される自衛隊"の宣伝に気を遣っていた。ただ、残念だったのは、この特別な日付の意味について、説明に接する機会がなかった点だ。
 「日露戦争」の終盤、戦況の決着を狙ったロシアは、はるばるバルト海から220日をかけてバルチック艦隊を日本海に送って来た。1905(明治38)年の5月27日、これを対馬沖に迎え撃った旗艦「三笠」座乗の東郷平八郎率いる総計100余隻の連合艦隊は、翌28日にかけて海戦で、ロシア艦隊の38隻中21隻を撃沈、7隻を捕獲、日本側はわずか3隻の水雷艇を失ったのみという、世界の海戦史上まれに見る大勝利を博し、日露戦争のきわどかった戦勝を決定づけた。
 歴史に「もし」は禁句というが、もし、日本がこの海戦に敗れていたら、今ごろは列島の民も、朝鮮半島の人々もロシア語を話していたことは、まず間違いない。歴史は、実際そうなりかけてもいた。
 当時は、帝国主義が武力で覇を競う世界であり、バルチック艦隊が向かっていたロシア極東の拠点ウラジウォストーク(Vladivostok)の語源が「東方を征服せよ」というロシア語であり、その前面に広がるピョートル大帝湾(Zaliv Petra Velikogo)の名が、ロシアに絶対王朝を築いたピョートル1世(PyotrTAlekseevich=1672〜1725 )に由来する事実は、この一戦の帰趨が日露両国はもとより、韓半島や中国東北地方のその後に大きな影響を与えたことを、雄弁に物語っている。(;)

コメント(全0件)


記事を書く
powered by ASAHIネット